Masuk相良さんは淡々と言った。 皮肉なのか、自嘲なのか。分かりにくい。「朝霧様には、こちらの一覧をご覧いただき、気づいた点をお知らせいただきたい」「礼法じゃなく?」「礼法は、昨日の晩餐会で十分拝見しました」「十分、ですか。褒め言葉に聞こえないのは、私の心が狭いからでしょうか」「少なくとも、相手の無礼につられて食器を投げる方ではない、とは判断しました」 褒められた気はしなかった。 私は椅子に腰を下ろし、画面へ向き直る。タッチパッドの表面は、使い込まれて一瞬だけ光っていた。こういう場所のパソコンは、たいてい誰かが何年も我慢しながら使っている。 一覧を日付順に並べ替える。 次に、請求番号で並べる。 同じ番号が二つあった。 片方は花材、片方はリネン。業者名は違う。けれど、請求番号の付け方が同じだった。偶然もある。けれど、納品日の翌日に承認がある行と、納品日の前日に承認済みになっている行が混ざっている。 私は黙って、列幅を広げた。「CSVで出せますか」「要りますか」「この画面だけだと、並べ替えた時に承認者の列がずれている可能性があります。元の出力を見たいです」 相良さんの表情は変わらなかった。 ただ、手元のファイルを持つ指が、ほんの少し止まった。「……できます」 彼は別のUSBを差し、加工済みのCSVを開いた。 私は列番号を確認し、承認者IDと承認日時を見比べる。やはり、数行だけおかしい。「これ、承認者が消えています」「消えてる?」「画面では承認済みになっています。でも、元データの承認者IDが空欄です。たぶん、古いシステムから新しいシステムへ移す時に、空欄でも承認済み扱いになる設定になっているんじゃないですか」 私は画面の端を指した。「あと、この業者名。株式会社が前に付いているものと後ろに付いているものを別業者として集計しています。請求番号が同じなのは、そのせいかもしれません。意図的にやるなら、かなり雑です」「雑、ですか」
翌朝、衣装室の窓には薄い曇りが張りついていた。 昨夜着ていたドレスは、専用のハンガーに戻されている。宮野さんが手配したのだろう。裾には汚れも皺もほとんど残っていなかった。あれだけ会場を歩き、廊下で司と言い合い、未央の視線を背中に浴びたのに、布だけは何もなかったような顔をしている。 私は靴を箱へ戻しながら、かかとに残った痛みを確かめた。 古い靴は、足に合いすぎていた。 合いすぎるものは、時々、合わないものより怖い。 扉を軽く叩く音がした。「朝霧様、お目覚めでしょうか」 相良さんの声だった。 榊邸に来てから、彼はいつも同じ調子で話す。丁寧で、低くて、余計な熱がない。怒っているのか、困っているのか、こちらが読み取る余地をほとんど残さない声だった。「……はい、起きています」 返事をして扉を開けると、相良さんは廊下にまっすぐ立っていた。銀縁の眼鏡の奥で、視線だけが一瞬、私の足元に落ちる。「お怪我は」「靴擦れ程度です」「医師を呼びますか」「結構です。そこまで大げさじゃありません」「では、医師は呼びません。ただ、歩く時は無理をなさらないでください」 それで話が終わると思ったのに、相良さんは動かなかった。「朝食の前に、少しだけお時間をいただけますか」「榊さんからですか」「いいえ。私からでございます」 廊下の空気が、ほんのわずかに変わった。 昨日の晩餐会で、榊家は私を客人として扱った。律の隣に座らせ、朝霧栞と書かれた席札を用意し、未央の挑発を社交上の無礼として処理した。 けれど、屋敷の中にいる人たち全員が、それを受け入れたわけではない。「試験ですか」 私が先に言うと、相良さんはほんの少し眉を動かした。「試験、と呼ぶほど立派なものではございません」「では、確認。……いえ、品定めと言った方が近いですか」「近いかと」 正直な人だと思うべきなのかもしれない。 でも、正直に品定めされるのも
廊下の空調が、急に冷たく感じた。 磨かれた床に、司の靴音だけが遅れて返ってきた。「でも、私を選ばなかったことに、名前をつけるなら、事情じゃありません」 司の顔から、色が引いていく。「選ばなかったんです。あなたは、私を」 言ってから、指先が少し震えた。 綺麗な言葉に聞こえてほしくなかった。 本当は、もっとぐちゃぐちゃだった。 怒っていたし、寂しかったし、今さら傷ついた顔をされることにも腹が立っていた。それでも、言葉にできる形に削ると、これしか残らなかった。 司は視線を落とした。「……そうだな」 かすれた声だった。「俺は、選ばなかった」 その言葉を司自身の口から聞いても、胸は軽くならなかった。 ただ、三年前からずっと床に落ちていたものを、ようやく誰かが拾い上げたように見えた。「だから、今さら私の行き先を心配しないでください」「栞」「朝霧です」 司の唇が、止まる。 私は目を逸らさなかった。「今は、朝霧栞です」 司は何かを言おうとした。 けれど、その視線が私の肩越しへ動く。 振り返らなくても分かった。 廊下の少し離れた場所に、律がいた。 車椅子の影が、床に静かに落ちている。相良さんはさらに後ろで控えていた。律は、こちらへ近づこうとはしなかった。 割り込まない。 助け舟も出さない。 ただ、私が戻る場所を塞がれないように、そこにいる。 その距離がありがたくて、少しだけ腹立たしかった。 私は司へ向き直る。「会場に戻ります」「待ってくれ」「待ちません」 今度は、すぐに言えた。 司の手が、伸びかけて、止まる。 昔なら、そこで止まらなかったかもしれない。今は、止まった。その変化を、私は感謝しなければいけないのだろうか。 違う。 感謝ではない。 遅すぎただけだ。 律の近くまで戻ると
私は化粧室へ向かうふりをして、少しだけ人の波から外れた。 古い柱時計の針が動く音だけが、必要以上に大きく聞こえた。 壁際に置かれた観葉植物の葉が、空調でかすかに揺れている。磨かれた床には、シャンデリアの光が細かく落ちていた。「栞」 呼ばれた名前に、足が止まる。 もう、その声で振り返る必要はない。 そう思ったのに、体は先に反応してしまった。 振り返ると、桐生司が立っていた。 会場の中より、少し顔色が悪い。胸元のタイは乱れていない。髪も整っている。そういうところだけは、昔から崩れなかった。「少し、話せるか」 司は答えを探すように、廊下の床へ目を落とした。「話すことはないと思います」 すぐに返した。 司は唇を引き結ぶ。昔なら、この間に私のほうが耐えられなくなって、先に言葉を足していた。 今は、黙って待てた。「今日のことは……すまなかった」「今日の、どのことですか」 自分でも、冷たい声だと思った。 司の指が、ジャケットの横でわずかに動く。「未央が、あんな形で三年前のことを出すとは思わなかった」「そうですか」「止めるべきだった」「ええ」 短く返すと、司は目を伏せた。 廊下の向こうで、誰かの笑い声が上がる。こちらへ近づいてくる気配はない。壁際の鉢植えが、二人分の影を床に落としていた。「三年前も」 司の声が、小さくなった。「止めるべきだった」 体の奥で、古いものが小さく割れる音がした。 ずっと聞きたかった言葉だった。 でも、今聞くには遅すぎた。「司さん」 私は、彼の名前を呼んだ。 昔の呼び方が、口の中でわずかに重い。「謝罪は、あなたが楽になるためのものですか」 司が顔を上げる。 傷ついたような目だった。 その顔を見て、少しだけ苦しくなる自分が嫌だった。「そんなつもりじゃない」「じゃあ、
車椅子が壇の手前で止まり、相良さんがマイクスタンドの高さを調整した。律は立ち上がらない。手元だけで資料を整え、声を低く落とした。 廊下のワックスの匂いと、閉め切った部屋の湿った空気が混ざっていた。「本日の支援事業について、簡単に説明します」 律の声は、会場の隅まで届くのに、少しも大きくなかった。 ざわめきが遠ざかる。 支援枠の説明は短かった。家族や婚約、雇用上の圧力で進路を絶たれた人を対象に、生活費と学習機会を一定期間支える。企業が名前だけを貸す寄付ではなく、審査と相談体制を外部の専門家にも委託する。そんな内容だった。 難しい言葉は多くない。 けれど、私の手の先は膝の上で止まっていた。 大学に戻れなくなった日。 夜勤明けのコンビニの裏で、スマートフォンの画面を見つめながら、通信講座の申込ボタンを押せなかった朝。 通帳の残高と、授業料の数字。 どれも、誰かに説明するほど大げさなものではないと思っていた。けれど、同じような場所に落ちた人を、拾い上げる制度があると言われると、三年前の自分がわずかに遅れて痛む。「なお、当枠の運営には、当事者視点を持つ外部協力者の参加を予定しています」 律が、そこで一度だけ言葉を切った。 未央の席から、小さな衣擦れがした。「現時点で協力候補者として調整中の一人に、朝霧栞さんがいます」 会場の空気が、ほんの少し動いた。 大きなどよめきではない。 けれど、私へ向けられる視線の質が変わったのは分かった。好奇心。探る目。計算する目。その中に、さっきとは違う種類のものも混じっていた。 哀れみではない。 値踏みでもない。 この人は何ができるのか、という目だった。 みぞおちのあたりが、少しだけ痛い。 嫌ではなかった。 でも、慣れていない痛みだった。「本人の同意なく、経歴や個人情報を公表する予定はありません。今夜の場で、彼女に過去を語らせることもありません」 律の声が、ほんの少しだけ低くなる。「必要なのは、誰かの傷を見世物にすること
席札の端は、指の腹に薄く食い込んでいた。 磨かれた床に、司会の声が遅れて返ってくる。グラスに残った水滴が、指先の近くで冷えていた。 次は、君の名前が出ます。 律の声は、乾杯の余韻に紛れるくらい小さかった。それなのに、耳の奥にだけ、はっきり残った。 私は咄嗟に顔を上げる。「……何の話ですか」「嫌なら止めます」 返答ではなく、逃げ道だけが先に差し出された。 そう返されて、逆に少し息が詰まった。今まで私の周りにいた人たちは、決めたあとで私に告げることが多かった。家を出て行け。代わりに嫁げ。黙って座っていろ。言葉の形は違っても、最後に残るものは同じだった。 律は、まだマイクを受け取っていない。 壇上に向けて相良さんが一歩控えたまま、こちらの反応を待っている。会場の視線はまだ律に集まっていて、私が席札を押さえていることに気づいている人は少ない。「止められるものなんですか」「進行は私の名前で組んであります」「榊家の晩餐会なのに?」「だから止められます」 淡々としていた。 当たり前のように言われると、怒る場所を見失う。けれど、心地よく受け取るには、私はまだこの人を知らなさすぎた。「先に、説明してほしかったです」 声は抑えたつもりだった。 でも、最後のほうだけ少し硬くなった。 律は、すぐには謝らなかった。言い訳もしなかった。仮面の奥の目が一度だけ伏せられる。「その通りです」 短い言葉だった。 それだけで終わったから、かえって小さな棘のように残った。「……今の、認めるんですか。もう少し言い訳してくれた方が、怒りやすいんですけど」「認めないほうがよかったですか」「そういうことじゃありません。そういうところです、本当に」 思わず返した声が、一瞬だけ低くなる。 律の目元がわずかに動いた。笑ったのではない。たぶん、私が怒ったことを確認しただけだ。「朝霧さん」「続けてください」
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「安心?」「ええ。私の隣に立つ人が、壊れやすいだけの人ではなかったので」 壊れやすいだけ。 その言葉に、反射的に眉が動いた。 紅茶の表面に浮いた光が、細く揺れた。「壊れていない、とは言わないんですね」「言えば、失礼でしょう」「正直ですね」「あなたには、取り繕うほど嫌われます」 言い返せなかった。 その通りだったからだ。 綺麗な言葉で包まれるほど、私は身構える。優しくされるほど、その下にある値札を探してしまう。誰かに差し出された椅子に座る前に、そこから立ち上が
冷めた紅茶の表面に、窓の光が細く揺れていた。 律が車椅子をわずかに引き、カーペットの毛足が低く擦れた。 カップの縁には、さっき私が指をかけた跡が薄く残っている。白い磁器の上で、それだけが妙に生々しく見えた。 ――私は、あなたに何を見せていますか。 言ったあとで、聞くべきではなかったと思った。 答えを聞いたところで、私はきっと信じきれない。褒められても困るし、慰められても腹が立つ。突き放されれば、やっぱりそうかと笑うだけだ。 面倒な問いだ。 それなのに、律はすぐには答えなかった。 膝の上で組ま
朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。 廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。 天井が高い。 壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。 掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。 私はしばらく、息を殺していた。 誰かの家に泊まったのではない。 嫁いだのだ。 正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。 そのどちらも、まだ少し遠い。 ベッド脇







